今から10年前の2007年、ずっと地元の四国地方で育った私は、思い切って東京に出てみることにした。
今回は、田舎から上京した時の話と、先日東京へ行って自分が住んでいた街を再度訪れた感想、地方人から見た都会暮らしについて書きたいと思う。
地方から東京への進出を考えている方には、ぜひ読んでいただきたい。
2007年23歳で憧れの東京へ
上京を決める前、東京には高校の修学旅行で一度しか行ったことがなかった。
修学旅行で行った東京タワー、東京ディズニーランド、原宿竹下通りに、特に憧れる要素はなかった。「人がいっぱいだな」という印象だけ。
浅草にも行ったが、東京スカイツリーなどまだない時代だ…
高校を卒業してからすぐに美容室へ就職した。大変だったが、4年ほどで何とか美容師として地元で仕事をやっていけるようになった。
しかし、心の底ではいつも思っていた。「このまま地元の美容師さんではいけない」と。
ただでさえ将来が危惧される仕事だから、県外のもっともっと有名なところで腕を磨いて、箔をつける必要があると考えていた。その考えは間違いではなかったと今も思う。
大阪もいいと思ったが、雑誌やテレビのメディア露出が多いのは断然東京だから、やはり東京しかないと思い上京することに決めた。
四国の田舎でしか暮らしたことがない私の初めての一人暮らし、かつ県外暮らしが「東京」になるとは、周りも自分も想像しなかったことだ。
1回目の下見 -初めて一人で東京へ-
自分には「美容師国家資格」がある。スタイリストとして働いた実績もある。東京での就職活動に困ることはないと思っていた。
それはあながち間違いではない。しかし、表参道や青山の「有名店」と言われる美容室は、求人雑誌に求人など出していない。
サロンのWebサイトから求人情報を探すか、電話で問い合わせるしかないのだ。
一番気になっていたサロンに書類を送ったところ、何とか面接までたどり着くことができた。面接は連絡から2日後。何とか、初めての東京ひとり旅の準備を整えて夜行バスで新宿へ向かった。
新宿西口のヨドバシカメラ前へ到着する。現在であれば、新宿バスタへ到着するのだろう。
向かう先は渋谷区神宮前。降り立った原宿駅は、修学旅行の時に見た景色とは全く違う景色に見える。初めての表参道を歩く。
明治通りを渡った先にGAPが見える。ファッションの研究のために見ていたストリートスナップの背景そのままの景色に感動する。そのまま右に曲がって明治通りを渋谷方面に歩くと、面接地のサロンへたどり着いた。
面接はすぐに終わったが、少しでも東京へ足を運んだことを無駄にしないよう、気になっていたサロンへは徹底的に見学を申し込んだ。
その日は原宿を歩き回るだけで一日が終わってしまったので、そのまま新宿へ戻り地元へ帰る夜行バスに乗った。
面接では自分が主張したかったことは十分に主張できたが、残念ながら結果は不採用だった。
2回目の下見 -物件決定へ-
東京へ行くまでの準備期間は、半年ほどコンビニの深夜バイトをしていた。
時給は安いが働いた時間分は給料が出るし、仕事上の出費なども全くなかったため、美容室で働いているよりは、いくらか時間にもお金にも余裕があった。
それでも焦る気持ちだけはどんどん強くなっていく。「こんなところは抜け出して早く東京で暮らしたい」と。
とにかく東京での仕事を決めなければ先へ進めない。ひとまず働く美容室にはそれほどこだわらず、正社員採用でそこそこの収入があればいいとの思いで大手チェーンへ面接を申し込んだ。
2007年4月、再び夜行バスで2回目の面接と下見に向かう。面接地は渋谷道玄坂。今回は新宿のカプセルホテルに数日滞在する予定だ。
面接を受けたサロンは、資格さえあれば就職可能と事前情報を得ていたので、あっさりと正社員採用。内定証明書も取得できたから部屋を借りることもできる。
最初は、千代田線明治神宮駅へ一本で行ける路線の沿線に住むことを考えた。(当時副都心線は開通前)
しかしなかなか良い場所が見つからず、情報を収集して、いいなと思った中央線沿線に住むことを考えた。勤務地もある程度自由に選ぶことができたため、何となくサブカルの街であるイメージから高円寺を選んだ。
できれば住む場所も高円寺がよかったが、予算に合う物件を見つけられない。
少し離れて吉祥寺にしても、当時から人気の街だから家賃はさらに高いし、西荻や三鷹も安くない。
ひとまず中央線沿線で立川まで一駅一駅降りてみて、自分に合いそうな街を探すことにした。
三鷹以降になってくると、駅間も長くなり、降りた先にはスーパーぐらいしかないところも多い。自分の中で最終点としていた立川に降りたった時、何でもある街中と、モノレールが通る近未来的な駅の構造にピンと来た。
都心からはすごく離れているけど、そこは気にせず、何でも完結するこの街にしようと決めた。物件も自分の都合に合うものがちょうどあり、準備を整える。
立川から新宿まで、中央特快で約30分、東京までは約40分。
地元では車、バイク、自転車での移動以外はあり得ない生活をずっと送って来たため、これがどれくらい遠いのかということは全く想像がつかなかったが、所要時間としては許容範囲と考えた。
もっと都市部に住んだ方が便利であるということは後から知ったが、それはどうしようもない。
この立川の街でさえ、県庁所在地である地元の街より十分に都会なのだ。
立川から都心部への通勤
高円寺の美容室に就職したと書いたが、色々と挫折があって3ヶ月で美容師自体辞めることにした。
最終目的は目的とする原宿のサロンに勤めることだったけど、当時の自分にはそのために必要な要素を兼ね揃えていなかった。それが何なのかすらもわからなかった。
何度も有名サロンへの選考に挑戦したが、結果は散々だった。
現在は「どうすればそこにたどり着けるのか?」の解答はわかったが、やはり現在の私でもそれは備えられない。結局、分不相応と考えて転職した当時の決断は間違っていなかったのだ。
以前にも書いたことがあるので過去記事も参照していただきたいが、IT業界に転職しようと思ってひとまず通信系のコールセンターに勤めることにした。
勤務地は飯田橋になった。それでも通勤の距離は少し長くなっただけで、中央線快速→総武線に一回乗り換えるだけで済む。
しかし、ここで初めて“満員電車の通勤地獄”というのを味わうことになる。
立川が中央線快速の始発駅となることはあまりない。電車に乗るときは、すでに満員に近い状態ということも多い。
四ツ谷まで、快速でも40分はかかる。人に押しつぶされて体が浮き上がるくらいの圧力に毎日耐えるのは本当に辛かった。遅延もよくある。
結局はそんなこともどうでもよくなるくらい、次に就職した職場でひどい目に遭って東京を離れることになったのだが、それはまた別の機会に。
今から10年前のインターネットやパソコン事情
当時パソコンは、Windows Vistaが発売されたばかりだった。MacはOS X Tiger(10.4)の時代。
転職するまで全然パソコンに触れるような仕事をしたことがなかった。でも、初めての一人暮らしでテレビやDVD、音楽プレイヤーを揃えるのは面倒だったので、思い切ってVistaで自作パソコンを組んだ。
家ではYoutubeや2ちゃんねるくらいしか見ていなかったため、パソコンそのものやWord、Excelの扱いは職場のXPパソコンで覚えた。(Youtubeもまだマイナーなコンテンツだった)
XPでパソコン入門したから、それ以前のWindowsの扱いについては全くわからない。
携帯電話は、当然ガラケー。着うたフルをダウンロードすることで携帯電話がミュージックプレイヤーになることに心が踊った(今はスマホで音楽は当たり前だけど当時は感動的だった!)
上京してすぐに30GBのiPodを買った。PCのiTunesから音楽データを同期して聴くということが衝撃的で「最新のウォークマンはCDもMDもいらないのか!」と感動した。
そして、iPhoneが日本に上陸するのでは?との噂も流れ始めた。「iPodと電話が合体した?絶対使わないだろ」とみんな言ってたがこんなに主流になるとは…
同じくスマートフォンも、BlackBerryなどはかなりニッチな部類で、「ビジネスマンしか使わないだろう」というのが共通の認識だった。
iPodの利用をきっかけにApple製品に興味が出る。
Appleといえば、映画「フォレスト・ガンプ/一期一会」で、トム・ハンクス演じるフォレスト・ガンプが「フルーツの会社だと思って投資していたらコンピューターの会社だったようだ」と言っていたエピソードを思い出す。
まさか自分がApple信者となるとは、当時は想像できなかった。Macを買ったエピソードについては後述する。
挫折…そして地元へ
当時の私の考え方は根本的に間違っていた。それは、
「苦労をすればするほど良い結果が返ってくる」「人にできない難しいことをこなせれば安定した仕事に就ける」
と考えていたことだ。一見正論に思えるが、この考えに明確な根拠はない。
苦労をしたから・時間をかけたから・お金をかけたから、“結果はよくなるであろう”
という願望にすぎない。努力は”量”ではなく”質”が大事なのだ。
努力のベクトルを間違えれば、どれだけ深く掘り下げても良い結果が返ってくることはない。それに気がつくまで多くの年月を消費した。
地元に帰るにしてもお金がないから、持ち物をとにかく必要最小限にした。本やCDなどのメディアも、売却できるものは全て売却した。
最終的に東京を離れる際、持ち物を必要最小限にする目的でMacBook(Early2008)ポリカーボネートのホワイトを購入した。
購入時の満足感はずっと薄れることなく、7年間買い替えなしで使用することができた。
東京を離れる際に最終的に残った持ち物は、MacBookとiPodと一本のアコースティックギターだった。
東京暮らしとミニマリスト
話は現在の2017年に戻る。先日、東京へ行って自分が住んでいた立川の街をもう一度訪れた。
自分はあの時何を求めていたのか、何がしたかったのかをもう一度考えるためだ。
10年前の街並みは面影を残しながらも、色々なところが変わっているようだった。
しかし、一人で食事に行っていた小さなお店が変わらず商売を続けていたり、毎日通った公園の風景が少しも変わっていない様子を見て、とても懐かしい気持ちになった。
「以前東京に住んでいた時はまだ若かった(23歳)のに、何をそんなに焦っていたんだろう」と今は思う。
大学に行ってたら新卒で社会人2年目の年。その若さで「一生やりたいこと」「生涯続けたいこと」なんて見つけるのは至難の技だ。
もっとじっくり無理のないように自分の生活を構築すればよかったのに「正社員じゃないと」「手に職がないと」といった、自分が決めた勝手な制約で、かえって首を締めることになったのは間違いない。
世間一般的に見てその考え方は間違っていない。しかし、支払う代償が大きすぎるのであれば、周りがYesと考えることであっても自分にとってはNoだと私は思う。
そのような状況の中で、当時の私は周りの人に対する接し方にも全く余裕がなく、きっと大きな迷惑をかけたはずだ。
地方から都会への進出を考えている方へ
私のように地方出身で東京での生活を少しでも検討している人は、絶対に東京に出た方が良い。
たとえば自分が興味のある分野に周りの人が興味を示さなかったとしても、東京に出ればその分野で自分よりも知識や技術を持っている人がいくらでもいると思っていい。
それぐらい人々の興味の対象は幅広く、田舎ではマイノリティとなるような多様な価値観も認められることは多いのだ。
私も実際に東京に住んで、「自分の小さな物差しで物事を測るべきではない」と痛感した。
「東京で暮らすには?」「東京で仕事を見つけるには?」といった内容に興味を持っていただければ、当ブログでもわかる範囲で情報を提供していきたいと考えている。
最小限装備でまた東京で生活しようと思う
最近頻繁に東京へ行っているのは、結婚を機に自分自身の活動の拠点を再度東京へ移そうと考えているからだ。(相手が東京在住のため)
仕事を変えなくてはならない可能性が非常に高いのだが、数ある選択肢の中から取捨選択をした方が、失敗して自分が窮地に追い込まれる可能性は低くなる。
いざとなれば非正規雇用でも問題はないのだ。世の中には“正社員”と名前がついても悲惨な雇用条件の職場はいくらでもある。
そういった“記号”にとらわれ過ぎると悲惨な目に遭うということもすでに経験済みだ。
東京での生活を諦めた時も、地元でうつ病に倒れた時も、最終的には自分の所持品を換金して必要なものだけとすることで、生活を建て直すことができた。
余計な欲や見栄に捉われなければ、今回の転職・移住もきっとうまく行くはずだ。
それこそが、“ミニマリスト”として生活している最大の恩恵なのだから。
現在は、生活に必要なものは全て揃っている。快適にブログを書くためのiMac、デスクトップパソコンを快適に使いこなすためのデスク・チェア、パソコンがなくても何でも調べることができるiPhone、目的地に最速でたどり着けるロードバイク、毎日おいしいコーヒーを淹れられる道具など。
引っ越す際に全てを移行できるとは限らないが、十分過ぎる装備だ。
この中からさらに必要なものだけを厳選して、より生活をコンパクトにして自分の目的を達成することが、今後このブログのメインテーマになってくるだろう。
もちろん今の仕事、地元での暮らしにも感謝して、全力で突き進むつもりだ。
よろしければ、これからも応援していただきたい。
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